◆ 茶道の目標とするところ

 

 

 

 

 

 茶には、ひとり清閑を楽しむ独楽の茶もあるが、『南方録』の冒頭に「小座敷の茶の湯は、第一、仏法を以て修行得道する事也。……水を運び、薪をとり、湯をわかし、茶をたてて、仏にそなへ、人にもほどこし、吾ものむ」とあるように、茶の湯とは自ら楽しむとともに他をも楽しませる自利・利他円満の菩薩(ぼさつ)(ぎょう)である。

 

そしてこの自利・利他円満こそは、実は大乗仏教とりわけ大乗禅の誓願とするところである。茶と禅との目標における一致の第一点は、まさにここにある。

 

 

 

 

 次に第二点は、茶道がそれを通じて形成しようとする理想的な人間像が、禅のそれと深く通ずるものがあることである。およそ禅は、坐禅三昧の行によって転迷開悟の実をあげ、さらに悟後の修行を積みに積んで脱洒(だっしゃ)自在の境涯に至り、ついに迷いはもとより悟りの臭みをもきれいに拭い去った迷悟両忘・()(りょう)(どう)未悟(みご)の境涯に達することをもって、人間形成の理想、自利の頂上とするものである。

 

そして禅では、この「悟り(おわ)って未だ悟らざるに同じ」という境涯を、使いに使って尖端が鈍磨し役に立たなくなった古錐(ふるぎり)にたとえて閑古(かんこ)(すい)の境涯ともいい、また長い辛酸艱苦の旅を終えて、ようやくわが家に帰りつき、一切の重荷を抛擲(ほうてき)してドッカと炉辺にあぐらをかくことになぞらえて、帰家穏坐(きかおんざ)の境涯とも称するのである。

 

 

 

 

ところで茶聖千利休の居士号「利休」とは、春屋宗園が千道安の要請に応じて「利休」意味を解説した

 

  参得宗門老古錐 宗門に参得せる老古錐

 

  平生受用截流機 平生受用す、截流(せつる)の機

 

  全無伎倆白頭日 全く伎倆無し、白頭の日

 

  飽対青山呼枕児 青山に対するに()いて枕児を呼ぶ 

 

という偈頌(げじゅ)の示すように、閑古錐と帰家穏坐の境涯とを含蓄せしめた号なのである。

 

 

 

 

利休がこの実境涯を得ていたか否かは問題であるが、彼が茶を通じてこの境涯に到達しようと願い、この境涯を人間形成の目標にしていたと推定して、決してあやまたないであろう。

 

利休がある人から茶道の秘伝を問われて、「夏ハイカニモ涼シキヤウニ、冬ハイカニモ暖カナルヨウニ、炭ハ湯ノワクヤウニ、茶ハ服ノヨキヤウニ、コレニテ秘事ハスミ候」と答えたというが、これは彼が悟了同未悟の境涯をある程度味わいえていたことを示すものである。

 

人間形成の目標の共通、そこに茶と禅の一味である第二の理由があるのである。(利休号の意味については、拙著「千利休」の157頁~177頁を参照)

 

 

 

 

 茶と禅の目標における一致の第三点は、茶道の美の理念であるわびが、禅芸術の理念とする美そのものにほかならないということである。紙幅の余裕もなく、今はその論証を割愛するほかはないが、次のことだけを指摘しておこう。

 

ちなみに久松真一博士はその大著『禅の美術』において、禅芸術の性格として、「不均斉・簡素・枯高・自然・幽玄・脱俗・静寂」の七つをあげておられるが、茶道の理念としてのわびは、まさにこれらの七つの性格を一つに統合した美にほかならないのである。

 

 

 

 

 茶と禅との到着目標における一致を、以上、三点にわたって略説してきたが、これらにもまして両者が一味であるゆえんのものは、茶道の目標である「和敬清寂」がまさに禅の世界観・人生観に深く根ざすものであり、禅道仏法の目標を具体化したものだ、ということである。

 

だが、「和敬清寂」とはどういうことであり、それはどこで禅と相通ずるのであろうか。

 

《 和敬静寂 》につづく

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