◆ 真の茶事三昧とは・・?

                               五

 

 

 茶禅一味の成りたつ基盤としての三昧の意味が、以上で一応わかったとして、次にその三昧の境地から茶をたてるとは、具体的にどうすることであろうか。真の茶事三昧とはどういうことであろうか。

 

 

 真の茶事三昧の実境涯を得ようというならば、一遍上人が念仏三昧の境地を体得しようとして心地覚心について修行したように、茶の稽古をする一方で、正脈の師家に参じて禅の修行をするのが最も近道である。それは脚実地に坐禅を実修して三昧力を養い、これを茶事の実際に活用して冷暖自得する以外にないものである。

 

 

 

茶事三昧とはどんなものかは、説明したとて説きつくせるものではなく、またよしんば説きえたとしても、それはあたかも薬の効能や服用の仕方を解説したようなもので、実際の役には立たないものである。しかし、そう言ってしまったのでは身もふたもないから、『禅茶録』の「茶事修行の事」の一節を引いて、その説明に代えよう。

 

 

 

ちなみに、その一節とは【さて、茶事に託して自性を求むるの工夫は他にあらず、主一無適の一心をもって、茶器を扱ふ三昧の義なり。たとへば茶杓を扱はんとならば、其の茶杓へのみ(もっぱ)ら心を打入れて、余事を(すこ)しも想はず、終始扱う事なり。又、其の茶杓を置く時にも、前の如くに心を深く寄せて置くなり。是は茶杓に限らず、一切の取扱ふ器物、いずれも右の意に同じ。又、其の扱ふ器物を置きはてて、手を放ちひく時、心は少しも放たずして、次ぎに扱はんとする他の器物へ、其のまま心を寄せうつして、何処までも気を(ゆる)べず、(かた)の如くにして点ずるを、()続立(ぞくたて)とは云へり。(ただ)、茶三昧の行ひなり。というのである。

 

 

 

 およそ茶をたてる場合には、点茶の一念だけが正念で、その他の念慮はすべて雑念である。普通の場合においては親が子のことを案じ、妻が夫の苦労をしのぶことは悪いことではない。むしろ善いことというべきである。しかし、もし茶をたてながら夫や子のことに想念をはせたとしたら、それは雑念である。「上手にやろう」という念慮や「今日はよくやっている」と自己観察する意識がはたらいたら、それは余念である。

 

 

 

点茶の場合には点茶の一念だけが正念で、この正念が終始一貫すこしの切れめもなく純粋に持続し、茶筅を振る時は振り三昧、茶碗をすすぐときはすすぎ三昧というように、一点の雑念も思慮分別もまじえず正念相続で茶をたてること、これが茶事三昧の第一の意味である。

 

 

 

 なお、これに関連して、能楽を大成した世阿弥元(ぜあみもと)(きよ)が『()(きょう)』という伝書のなかで、能楽の「極めた秘伝」として「万能を一心につなぐべし」と説いていることを紹介しておきたい。

 

「万能を一心につなぐ」とは、あたかも一本の糸が(じゅ)珠玉(ずだま)の一つ一つを貫きとおして見事な数珠を構成しているように、一心すなわち芸道の正念が舞台の上につぎつぎに展開する能の一齣(ひとこま)一齣 ― 一音一舞・一挙手一投足を切れめなく貫きとおしていることであり、これが能楽の最もむずかしく、しかも最奥の秘伝だというのである。

 

 

 

正念が生き生きと一貫相続している三昧の境地から流露する能でなければ、一音一舞みな一心の発露である能でなければ、真の能ではない、というのが世阿弥のいわんとするところである。この「万能を一心につなぐ」という一語は、そのまま茶の湯にもあてはまる名言で、茶事三昧の真義を理解する上に、まことに適切な一語である。

 

 

 

 三昧の第二の意味は心境一如・物我不二ということで、自分と他人・主観と客観・自己と物とが不二一如となることであった。これを茶事にあてはめればどうなるか、紙幅もないので簡潔に要点だけ述べておこう。

 

 

 

山岡鉄舟は剣道とともに禅の修行にはげみ、どちらもその(うんのう)をきわめ剣禅一如の妙境に体達した大居士であるが、彼は大刀を使いながら自らの一流を無刀流と称したのであった。

 

これは刀を持ってしかも刀を意識せず、刀と自己が一如という意味である。また真の書家は筆を持ってしかも筆を忘れるという。これが物我不二ということで、茶杓を持って茶杓を意識せず、茶筅を扱って茶筅を忘れ、茶碗と自己と不二になったら、茶事三昧の妙境に、少なくともその一角に達しえたといってよいであろう。

 

 

 

なお、亭主と客とが、それぞれ亭主であり客でありながら、しかも両者が肝胆相照らして主客一如・賓主不二となる茶境が無賓(むひん)(しゅ)の茶ということは、ご承知のとおりであるが、これは自他不二という第二の意味に、最もよくかなう至妙の茶境というものである。

 

 

 

 

 三昧の第三の意味は、正受にしてしかも不受ということであったが、これを茶事の実際に具現したらどうなるであろうか。まず茶の点前に即して考えてみよう。

 

茶杓をとり茶入から茶をすくい茶碗にいれる場合には、そのことだけに正念をそそぐのは正念相続の点からみて当然であるが、茶入を置き終わったら茶入から心を放ち、ついで茶灼を置きはてたら茶杓を忘れ、心は自然に柄杓で釜の湯を茶碗に汲みいれることに移り、柄杓を置き終わったら柄杓を忘れて心は淀みなく茶筅に移るというように、「応無所住而生其心」でスラスラと自然法(じねんほう)()に茶をたてて後に心を止めず、またその間に客の動きがあればその動きを見、(せき)をする人があれば咳を聞きながら、しかもそれに心を動かされず如法に茶をたてていく、これが正受にして不受な点前というものである。

 

 

 

もし万一、茶がこぼれたら少しも騒がずさりげなく拭い、茶銘や道具のことを問われたら淡々と簡潔に答えて、「一鳥鳴いて山更に幽なり」という茶境を開いて凝滞(ぎょうたい)のないこと、これ正受にして不受な茶事三昧の境地である。

 

 

 

 以上、三昧の意味と茶事三昧とについておおまかに考察してきたが、この三昧こそは茶禅一味の成りたつ共通の基盤であり、三昧の境地から運び出してこそ茶の湯は禅に通じ、真の茶道となるのである。

 

 

 しかし、茶と禅と一味でありうるのは、単に三昧というその基盤が共通だからだけではない。茶道の目標とするところと深く相通ずるものがあるからでもある。次に与えられた紙幅の範囲内で、それについて少し考察を加えることにしよう。

 

 

茶道の目的とするところ》につづく