◆ 茶禅はなぜ一味なのか

 

 

 

 

 「茶禅はなぜ一味なのか」と問うと、「それは茶の湯が禅宗わけても大徳寺派の臨済禅と密接に結びついて発達したからだ」という答えの返ってくるのが普通である。茶禅一味の説の成立した根拠に、両者間の密接な交渉という歴史的な事情のあることは事実である。

 

 

 有名な趙州(じょうしゅう)従諗(じゅうしん)に「喫茶去(きっさこ)」の古則があり、『臨済録』に「且坐(しゃざ)喫茶」という臨済の一語のあることで察せられるように、喫茶の習俗は唐代の禅林にすでに相当に普及していた。そしてこの習俗は五代をへて宋代にはいるに及んでさらに一般化し、諸方の禅林においては達磨(だるま)忌・開山忌などのかど(・・)ある場合には茶礼が厳粛に行われ、かつ喫茶法も団茶を煮る方式から抹茶を()てる方式に推移していたようである。

 

そして鎌倉時代の初期の明庵(みょうあん)西(えいさい)黄竜(おうりょう)派の臨済禅とともに、この宋代禅林の喫茶の習俗と茶種とを伝えて帰朝し、これが契機となって喫茶の習俗が再び盛んになったことは周知のとおりである。

 

ついで南浦紹(なんぼじょう)(みょう)が虚堂智愚に参じて臨済宗(よう)()派の禅とともに台子(だいす)を招来し、帰化僧や留学僧らも喫茶の習俗をもちかえり、わが国禅林においても茶礼が行われ、また茶は養生の仙薬として愛飲されるようになった。喫茶の習俗の再輸入と普及とは、このようにして禅僧らに負うところが、きわめて大きいのである。

 

 

 また先にも触れたように、村田珠光が先行の喫茶の諸方式を綜合して四疊半小座敷のわび茶を創始するにあたって、その統合の基本原理としたものは、彼が一休宗純に参禅して体得した禅の精神であり、禅林の茶礼は彼のわび茶の有力な一源流となったのであった。そしてその後、珠光流のわび茶を継承し発展させた茶匠たちは、茶技の練磨をはかるとともに、堺の南宗(なんしゅう)寺や大徳寺の禅僧に参じて道号を受け、禅的精神の体得につとめたのであった。

 

十四屋宗悟が古岳宗亘に、武野紹鷗が大林宗套に参じ、津田宗及(そうぎゅう)が大林から道号を授かり、千利休が笑嶺宗訢(しょうれいそうきん)に参じ、かつ笑嶺の法嗣の古溪(こけいそう)(ちん)春屋宗(しゅんおくそう)(えん)らと親交を結び、古溪から「三十年飽参」の大居士と称されたことは、かくれもない事実である。

 

また利休亡き後の茶の世界をリードした古田織部(おりべ)と小堀遠州の両者が、ともに春屋宗園から道号を授かり、彼と親交のあったことは春屋の語録『一黙稿』に徴して明らかであり、遠州が春屋の法嗣の江月宗玩(こうげつそうがん)と親しかったことは、()(ほう)庵の存在がよく証明している。

 

 

 なお、利休の子の道安(どうあん)が春屋と、少庵が(せん)嶽宗(がくそう)(とう)と親しく、ことに千家茶道の復活とわび茶の確立に大きな足跡をのこした少庵の子の千宗旦は、その青少年時代を春屋のもとで喝食(かつじき)として指導をうけ、長じて鹿苑寺鳳林承(ほうりんしょう)(しょう)と交わり、とりわけ大徳寺の玉室(ぎょくしつ)(そう)(はく)・江月宗玩・沢庵宗彭(たくあんそうほう)らと親交を結び、天祐紹杲(てんゆうじょうこう)清巖宗渭(せいがんそうい)らと交渉をもっていた。そして古溪・春屋以下のこれらの大徳寺派の禅僧はみな茶の湯に大きな関心をもち、茶の湯の精神的な深化すなわち茶の湯から茶道への昇華に強い影響を与えたのであった。

 

 

 茶禅一味ということがいわれ、茶室の掛物として禅僧の書いたいわゆる墨蹟がこよなく珍重され、茶趣に禅味のゆたかなのが、こうした茶の湯の成立・発展と禅との緊密な歴史的関係にもとづくもののあることは否定しがたい。しかし、茶と禅との歴史的交渉の綿密さを明らかにしても、それだけでは茶禅一味の理論的根拠を解明したことにはならない。

 

本来は二つの別なものである茶と禅とを結びつけ、両者を不二一(にょ)ならしめる共通なものは何か。茶と禅とは何において一味なのか、という疑問は依然として未解決である。次に、素朴なしかしそれだけに根本的な、この問題の解決に歩を進めることにしよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 禅とは何かという問いに対しては、いろいろな角度から、高くも低くもさまざまに答えることができるが、最も端的直截(じきせつ)な答えは禅とは釈迦(しゃか)と同じく坐禅し、釈迦と同じ禅定(ぜんじょう)三昧(ざんまい)の境地にはいり、その三昧力によって釈迦と同じ悟りを開き、さらに悟後の修行を継続して、釈迦と同じ境涯に到達しようとする(ぎょう)の宗教である。ということに帰着する。

 

禅の基本は禅定三昧の行であり、その生命は開悟である。他方、茶の湯、いや茶の湯の本義は『禅茶録』の著者がいみじくも道破しているように器の善悪を択ばず、点ずる折りの容態を論ぜず、ただ茶器を扱う三昧に入りて、本性を観ずる修行なり。ということにある。

 

 

 

点茶という行に託して三昧力を養い、禅の場合と同様、その三昧力によって自らに円満に具有している仏性(ぶっしょう)(本心本性、真実の自己)を徹見し開悟の実をあげること、これが茶道たるゆえんである。茶道の最も重んずるところもまた三昧であり、それによる開悟である。

 

 

 

 本来の禅と別物である茶道が禅と不二でありうるのは、茶道が三昧という行とそれによる開悟という点で、禅と相通ずるからである。茶禅一味の成りたつ、成りたちうる根拠はまさにここにあるのである。だが、その三昧とはどういうことであろうか。

 

 

 

 

 およそ三昧とは、梵語のSamādhiを漢字に音写したもので三摩地(サンマヂ)とも書かれ、辞書には「心を一事に集中して余念のないこと、一心不乱に物事をすることと解説してある。しかし、これは三昧の意味を十分につくしたものではない。三昧には厳密にいうと、正念の相続一貫・心境一如(もつ)()不二・正受(しょうじゅ)にして不受という三つの意味があるのである。この三つの意味を統一したものが三昧なのである。ところで、ここに三昧の何たるかを説くのに適切な例話があるので、理論的な解説に先立って、それを手みじかに紹介しておこう。

 

 

 

 鎌倉時代の中期に出た時宗(じしゅう)という念仏宗の一派を開き、諸国を遊行(ゆぎょう)し踊り念仏で下層の民衆を教化した僧、一遍(いっぺん)上人(しょうにん)()(しん)の名は誰でも知っているであろう。ところで念仏で最もたいせつなことは、念仏のときにひたすら念仏して他のいかなる念慮もないこと、いわゆる念仏三昧ということである。

 

一般には念仏は()(ぎょう)の法門だといわれているが、実際に念仏を唱えてみればわかるように、口で熱心に念仏を唱えているときでも、いろいろな想念が脳裏に浮かんでくるものである。念仏三昧になりきることは容易なことではない。むしろ難中の難である。ところで一遍上人は根が正直純真反省力の強い人であっただけに、自分が念仏三昧になりきれないことを痛切に慙愧(ざんき)し、念仏三昧の境地を実地に体得しようと大いに努力していた。そして念仏三昧の境地を体得するには、坐禅して禅定三昧を実修、三昧力を涵養するのが近道だと気がついた。

 

 

 

 当時、『無門関』の著者として名高い無門(むもん)()(かい)の法を嗣いで帰朝した心地(しんぢ)(かく)(しん)(後の法燈国師)が、紀伊の国の由良(ゆら)に興国寺を開創して禅風を挙揚(こよう)しており、その名声が四方に聞こえていた。そこで一遍は興国寺を訪れて心地に参じ、雲水らとともに日夜坐禅の行にはげんだ。その骨折りのかいがあって、ある日、三昧とはこれだ、念仏三昧の境地とはこれだ、と自ら許せる境地にいたった。

 

そこで彼は念仏三昧について自らの悟りを、「唱うれば仏も我も無かりけり 南無阿弥陀仏の声のみぞして」という一首の和歌にまとめ、これを禅のいわゆる見解(けんげ)として心地に呈した。しかし心地は「この見解、一応悪くはないが、まだ不徹底だ。もう一度、工夫しなおして持ってこい」と指示して、これをうけがわなかった。

 

 

 

そこで一遍は退いて再び猛烈に坐禅し、どこが・なぜ不徹底かをよく工夫し、ついに「唱うえば仏も我も無かりけり 南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」と改めて、これを呈した。すると心地はハタと膝を打って「ウン、これならよろしい。念仏三昧の何たるか、これで徹底したであろう」と、一遍の見解を深くうけがわれたということである。そして一遍はこれで三昧の玄旨を体得し、念仏三昧の妙境に徹し、これを土台に時宗という念仏宗の一派を開創したのであった。だがいったい、最初の見解のどこが不徹底であり、第二の見解がなぜよいのであろうか。

 

 

 

 「唱うれば仏も我も無かりけり」という上の句は、一遍が相当深く三昧の境地にはいり、念仏三昧の意味の一面をよくつかんでいたことを示している。なぜなら、念ぜられる阿弥陀仏と念ずる我とが別個のものとして相対していたのでは、一般的に主観と客観とが二元的に対立していたのでは三昧とはいえないのに、この上の句によれば、念ぜられる仏と念ずる我とが不二一如となり、主観と客観とが一枚に合一している境地に彼が体達していたことがわかるからである。先に三昧の意味の一つとして、心境一如・物我不二ということをあげたが、それはまさにこのことである。

 

 

 

 

 しかし、心地が最初の見解を「一応は悪くないが、まだ不徹底だ」といって退けたのはなぜか。それは下の句の「南無阿弥陀仏の声のみぞして」というのが悪いからである。どこがいけないのかというと、これは念仏の声を対象的に聞いている自己が依然として生きており、仏と我とが不二一如となった状態を観察し、これを説明し、かつ念仏の声を聞いている自己がなお生きているからである。

 

念仏の一念が百パーセント純粋になりきっておらず、ほんとうの念仏三昧に一点欠けるところがあるからである。これに反して第二の見解の下の句では「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」と、徹頭徹尾念仏そのものになりきり、観察し説明し聴聞していた自己がきれいに影を没し、真の三昧境がそこに如実に現成している。これでこそ真の念仏三昧というもので、心地はこれを認めてうけがったのである。

 

 

 

 

 なおここで一つ注意してぜひ誤解を避けておきたいことがある。それは真の三昧とは決して世のいわゆる無念無想ではないということである。

 

「仏も我も無かりけり」で主観と客観とが一つに融合しているとはいいながらも、それは決して単なる恍惚境(エクスタシー)にひたり、精神の働きを停止した空白状態に陶然としているのではない、ということである。いや、それどころか「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏……」という唱名念仏の一念・正念が、しかもその正念だけが生き生きとかつ純粋に少しの切れめもなく一貫相続しているのだ、ということである。

 

 

先に三昧の一つの意味として正念の一貫相続ということをあげたが、正念の一貫相続とはどのようなものなのか、これでおよそ納得がいけたであろう。これで三昧の意味の二つはわかったわけであるが、第三の意味の「正受にして不受」とはどういうことであろうか。

 

 

 

 

 

 私たちには眼耳鼻舌身意の六根と眼識・耳識……意識という六識があり、これに対応して外界に色(しょう)香味(そく)法の六境があり、これが綜合的に働いて、そこに感覚と認識とが成立するのである。六根と六識とが正常であり、そこに光派・音波などの六境の刺激が加われば、「これは赤い花だ」「これは美しい音色だ」というように感覚ついで認識の成立するのは、自然で当然なことである。

 

 

 

世間には、三昧を「のぼせあがって夢中になる」ことと解している向きもあるが、それは文字どおり誤解である。「白いものを黒い」と見、「堅いものを柔らかい」と受けとるのは錯覚である。美しいものを美しいと見、熱いものを熱いと感覚し、三味線の()を三味線の音と認識していささかのまぎれもないこと、これを正受というのである。

 

だが、「正受にして不受」というのはどういうことであろうか。それは見えたまま、聞こえたままにして、それ以上、二念三念に展開させず、それを思慮分別に発展させないことである。それをそうせずに二念三念へつなげ、思慮分別に発展させるものだから、次から次へと連想がおこり、いつか雑念の黒雲がはびこり、正念の相続が()害されてしまうのである。

 

 

 

 明鏡が、美人が前にくれば美人をあるがままにうつすが、美人が去ればさらに痕跡を残さないように、また「風、疎竹に来る、風去って竹、声を留めず」という句のように、外界の刺激を正しく受納し、しかもその刺激が去れば後にいささかの痕跡ものこさず執着のないこと、それを正受にして不受といい、これが三昧の第三の意味なのである。

 

そして、このように正受にして不受であるがゆえに、よく「応無所住而生(おうむしょじゅうじにしょう)()(しん)」―「まさに住する(執着する)所なくして其の心を生ず」というように、心は少しの渋滞もなく外界の変化に応じて自由自在に転ずることができるのである。

 

 

 

 

三昧とは、このようにして、精神のはたらきの空白や停止ではなく、まさに臨機応変自由自在に、しかも痕跡をとどめず働き澄みきった心境そのもであり、いわゆる無念夢想ではない。正念正想というべきものである。

 

 

《 真の茶事三昧とは?》につづく