◆ 寂とは・・?

 

 

 

 

 寂は一般には静寂・閑寂として、ものさわがしくなく、静かでひっそりとしていることの意味に解されている。むろん、それは寂の本来の意味である。しかし、茶の湯において貴ぶ寂は、物音ひとつしない死の静けさではない。「一鳥鳴いて山更に幽なり」というような、生動をふくんだ張りのある静である。

 

 

 

また『菜根譚(さいこんたん)』の  其の(うち)を欲にする者は、波寒潭に沸き、山林も其の寂を見ず。其の中を虚にする者は、凉酷暑に生じ、朝市(ちょうし)も其の(けん)を知らず。という一章のうとしている心の安静である。外的環境の静寂はもとより結構であるが、寂においてより肝心なことは、車馬往来の喧騒な十字街頭にあって「山静かなること太古に似たり」というように、環境によって動揺させられることのない主体的な心の静である。

 

 

 

 なお、寂には寂寥(せきりょう)とか寂寞(せきばく)という熟語が示すように、はなやかさ・にぎやかさの対語としてのさびしさ・わびしさの意味がある。

 

ところで佗びの境地と美とを問われて、武野紹鷗が「見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦のとま屋の秋の夕暮」という藤原定家の歌を味わえと説き、利休が「花をのみ待つらん人に山里の 雪間の草の春を見せばや」という藤原家隆の歌をもってこれを暗示したことは、人みなのよく知るところであるが、この二首の歌境はまさに寂寥・寂寞そのものである。

 

 

 

してみると紹鷗と利休の追及していた佗は、寂寥・寂寞つまり寂と同じもの、少なくとも寂ときわめて近い境地と美とであったといって、決して当を失わないであろう。茶道がその理念として「寂」をかかげたのは、これに佗びの意味をこめてのことと考えられる。

 

 

 

 この寂を「()び」とよむことで察せられるように、寂には蕉風(しょうふう)俳諧(はいかい)の根本理念である「さび」と深く相通ずる美 ― 枯淡簡素の美・永劫不易な無一物の美、総じて否定的な美への志向がふくまれていることは、今さら指摘するまでもあるまい。

 

 

 

 

 

 「寂」には、以上みてきたところで明らかなように、環境的・感覚的な静と主体的な心の静、またわび・さびと深く相通ずる境地と美との二つの意味がある。しかし、寂にはもう一つのより深い意味、大乗仏教の理想に根ざしたより高次の意味・内容がある、と私は考える。

 

 

 

 およそ大乗仏教の究極の理想はニルバーナ(nirvāna)、音訳して涅槃(ねはん)をこの世に現成(げんじょう)させることである。ところで、この涅槃とは滅・寂滅・不生不滅・円寂の意味である。和敬静寂の「寂」は実にこの寂滅・円寂の寂で、涅槃の意味も含んでいるというのが、私のここで言おうとするところである。

 

 

 

 

 

 涅槃には、仏教学者がこれを自性清浄涅槃・有余(うよ)涅槃・無余(むよ)涅槃・無住涅槃の四種に分け、煩瑣な解説をしていることで察せされるように、高低・深浅いろいろの意味がある。一般には「涅槃に入る」といえば死ぬことと解されているが、涅槃すなわち寂滅・円寂を死と同義とみるのは最も低次な解釈である。

 

また涅槃を不生不滅の意味にとり、これを生死流転の世界から不生不滅の世界に入ること、即ち差別相対の迷いの世界から不易絶対の悟りの世界へ入ることとするのは、やや高次の解釈である。

 

 

 

しかし、大乗仏教とりわけ大乗禅の説く涅槃、すなわち真の涅槃とは死滅ではないだけでなく、差別と生滅流転の現実世界を離れた観念的な理想世界のことでもない。差別もなく流転生滅もない極楽浄土、そのような退屈で非現実的なユートピアのことではない。

 

大乗仏教の最高の哲学である華厳(けごん)()法界(ほっかい) 、事法界・理法界・理事無礙(むげ)法界・事々無礙法界にあてはめれば、真の涅槃とはまさに事々無礙法界のことである。

 

 

 

真の涅槃即ち寂とは、山は高くそびえ川は低く流れ、雀はチュンチュン烏はカアカアと鳴き、大工はトントン商人はそろばんをパチパチさせながら、ひとくちにいって人間も万物もそれぞれの本然の自性のままに差別歴然と存在し、生滅流転をしながら、しかも皆それぞれにその所をえて、全体として一大調和をなしている世界のことである。

 

そしてこの真の涅槃・大円寂の世界・大調和の世界をこの現実の世界に現成せしめること、娑婆(しゃば)即寂光浄土たらしめること、これが大乗仏教の目標である。

 

 

 

 古人が和・敬・清とならべて寂をその理念の最後にかかげたのは、大乗仏教の理想であり目標であるこの真の涅槃、大円寂・大調和の世界をわび草庵のうちに建立し、「露地ノ一境、浄土世界ヲ打開ク」ことこそ茶道の真の目標である、との肚からであろう。

 

 

 

 

 

茶禅一味ということが、今日、常識的によくいわれているが、茶と禅とは本来は別なもので、無条件で一味なのではない。茶事が禅と同じ三昧の境地から運びだされ、かつ茶の目標とするところが禅の目標とよく一致してはじめて茶が禅に通じ、禅と一味でありうるのである、茶禅一味といいうるのであるということを、以上説いてきたつもりである。

 

 

 

それは余りにも禅に傾斜した禅本位の窮屈な論だと思われるかも知れない。私とてむろん、茶道に遊びや芸術の面があることを否定するつもりはない。しかし、いやしくも茶道といい、茶禅一味の茶を標榜するのであれば、その茶はこうあるべきだ、と言いたかったまでのことである。

 

 

 

そして茶禅一味の真義にたちもどって、そこから現代の茶道のあり方を反省してみることは、真の茶道の興隆のために意義のあることであろうという老婆心から、あえて言わずもがなの私見を吐露した次第である。

 

しかし、その論旨、必ずしもわかりやすいとはいえず、舌たらずの点も多く、かつ尊大不遜の印象をあたえるふしもあったかも知れないが、どうぞ私の意のあるところを諒として、この小論から何かを汲みとっていただければ有難いしあわせである。(終わり)

 

 

『茶禅一味』発行先

 

 

 

人間禅叢書第7編 『茶禅一味』

 

 

 

昭和501015日 初  発 行

 

平成21年 月  日  第版 発 

 

頒価 500                           

 

 

 

       発行所    宗教法人  人間禅出版部

 

            272-0827

 

千葉県市川市国府台6- 1-16

 

     

 

 

 

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