◆ 清 とは何ぞや

 

 

 

 

 清とはいうまでもなく汚れなく清らかなことである。飲食物はおいしいこともむろんたいせつであるが、清潔に調理され清く美しく供されることが先決条件である。一般の飲食店や家庭において、調理室や食器の清潔また調理人や給仕人の服装・手足などの清浄(しょうじょう)に細心の注意をはらうことは、事新しくいうでもない。

 

 

 

ましていわんや、共同飲食の儀礼から転化した芸術としての茶の湯においておやである。利休が人から茶器を買ってくれといって金五両を託され、その五両で茶巾と茶筅とをドッサリ買って送ったという話が伝わっている。

 

 

 

これはおそらく後世の作り話であろうが、茶の湯において何よりも清浄を貴ぶべきことを強調した佳話である。また与四郎時代の利休が師の紹鷗から露地の清掃を命ぜられ、塵一つなく掃除したあと、庭木の(こずえ)をゆすって数枚の紅葉を散らし、紹鷗をして感嘆措くあたわざらしめたという逸話も伝わっている。この逸話が事実か否か疑問であるが、ともあれ茶の湯の重んずる清が単に清らかであるだけでなく、自然のさわやかさ・美しさをふくむものでなければならぬことを示唆したものである。

 

 

 

「白菊や目にとめてみる塵もなし」という松尾芭蕉の句のような清らかな美しさ、それは茶の湯の清の重要な内容ではある。

 

 

 

 しかし、茶道の理念の一つとしての清は、単にこのような物理的・感覚的な清らかさ美しさにつきるものではない。心の清浄をこそ最も貴ぶのである。感覚的な清を媒介して心の清浄に到り、さらに心の清浄がおのずから流露して清らかな美しさとなって、はじめて茶道の理念としての清の真意にかなうというべきである。だが、心の清浄とはどういうことであろうか。

 

 

 

 

 

 『南方録』の「滅後ノ巻」に「(わび)ノ本意ハ、清浄無垢ノ仏世界ヲ表シテ、コノ露路・草庵ニ至リテハ、塵芥ヲ払却シ、主客トモニ直心ノ交リナレバ、規矩寸尺・式法等、アナガチニ云フベカラズ」とあることは、周知のことであろう。ここにいうところの「露路・草庵ニ至リテハ塵芥ヲ払却シ」とは、単に露地や茶室の清掃だけではなく、煩悩妄想はもとより一切の俗情を拭い去り、心の清浄をはかること、洗心を意味している。

 

 

 

しばしば説いてきたように、私たちには真如(しんにょ)の月や()()みの鏡にもたとえるべき仏性が本来円満にそなわっているのであるが、煩悩妄想の雲に覆われ、俗情の(さび)がつき塵埃がたまっているがために、その明を失っているだけのことである。 

 

北宗(ほくしゅう)禅の開祖(しん)(しゅう)が自らの心境を吐露した「身は是れ菩提樹 心は明鏡台の如し 時々(じじ)に勤めて払拭し、塵埃を()かしむることなかれ」という偈のように、心の掃除をすること、それがここにいう「塵芥ヲ払却ス」の意味である。

 

 

 

したがってこの一節の大意は、主客ともに露地・草庵にはいるに際しては、一切の煩悩妄想はもとより俗情をきれいに拭い去り、明皎々(めいこうこう)たる秋月にもたとえるべき仏性を現前せしめ、互いに肝胆相照らして不二一如となり、小座敷のうちに清浄無垢の仏世界を現成せしめること、これが佗びの本意であり茶道の目標である。したがって規矩寸尺・法式なども大切なものではあるが、さほど拘泥すべきものではない。ということである。

 

 

 

「佗ビノ本意」すなわち茶道の目標の達成の上に、心の清浄がいかに重視されているか、およそ察せられるであろう。なお、『禅茶録』の「禅茶器の事」の条に禅茶の器物は美器に非ず、珍器に非ず、宝器に非ず、旧器に非ず。円虚清浄の一心をもって(うつわ)とするなり。この一心清浄を器として扱ふが、禅機の茶なり。とあるが、これまた茶道における心の清浄の重要さを強調力説したものである。

 

 

 

この「円虚清浄の一心」を自由自在に働かせ、南宗(なんしゅう)(ぜん)の宗祖六祖慧能(えのう)のいわゆる「本来無一(もつ)」の境涯から茶をたてること、これこそが茶道の理念としての「清」の真義というものである。だがそれでは最後の「寂」とはどういうものであろうか。

 

 

        《 寂とは・・?》につづく

 

茶知己に逢うて飲む
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