◆ 敬 についての考察

 

 

 

 現代の若い世代の間では、敬や礼という徳目は、古い封建道徳の残()のように見なされ、民主主義の社会には無用有害な悪徳とさえ考えられているようである。たしかに、かつての前近代的な社会においては、敬や礼は下のものが上のものに対して一方的に表すべきものとされ、不平等な身分秩序を維持するための重要な支柱の役割をはたしていた。

 

その点、若い世代の人びとが敬や礼を封建道徳と見なし、これに反撥するのは故なしとはしない。しかし、茶道の理念としての敬、真の敬ははたして封建道徳の残滓にすぎないのであろうか。民主主義と相容れない道徳なのであろうか。むろん、そうではない。

 

 

 

 およそ、民主主義社会の成りたつための基本原則は、人間はすべて平等だということと、すべての人格は尊厳だということとの二つである。ところで人間はなぜ・また何において平等であり、人格はなぜ尊厳なのであるか。

 

 

 

ある人は説くであろう、「人間は食欲・性欲・睡眠欲・利財欲・名誉欲の五つ、いわゆる五欲煩悩(ぼんのう)のかたまりで、その点、貴賎・貧富・賢愚・美醜にかかわりなくみな同じである。煩悩具足の凡夫として、ないし罪人として、神仏の前において万人皆同じで、その意味で平等であると。

 

たしかに、これで人間平等は一応説明できるであろうが、同じ原理で人格はなぜ尊厳かを説くことは不可能である。その点、同じ原理で人間の平等と人格の尊厳とを説きうるのは、大乗仏教とりわけ禅を()いてほかにはない。

 

 

 

 

 先きにも触れたように、大乗仏教の根本教理は「一切衆生(しつ)()仏性」ということである。ところでこの仏性は、貴賎貧富などの別をこえて万人が本来円満に具有しているもので、万人において等質等量である。それこの仏性からみた場合、万人は貴賎・貧富などにかかわりなく平等であるというのが、大乗仏教の人間平等論である。

 

 

 

そして、この一味平等の仏性こそは、茶道の理念としての和の成りたつ基盤なのであったが、それがまた人格の尊厳なゆえんであり、また「敬」の成りたつ基盤でもあるのである。けだし、「私たち人間は男女・老幼・貴賎・貧富ないし善悪・賢愚に関係なく、仏と寸分変わらぬ本心本性、すなわち高貴な仏性を本来円満にこの肉体に宿している。

 

それゆえにこの肉体は煩悩具足のまま法体(ほったい)であり、人格は尊厳である」というのが大乗仏教の人格尊厳論の骨子である。これはまことに首尾一貫し透徹した論である。私たちが各自に自重し、自信を持ち、自愛すべき理由もまたここにあるのである。

 

 

 

 しかし、この尊厳高貴な仏性を宿しているのは自分だけではない。他のすべての人びともまた宿しているのである。とすれば、自己の仏性・「自家屋裡(おくり)法身仏(ほっしんぶつ)」を尊重すると同じように、他の仏性をも敬重するのは理の当然というものである。

 

 

 

 

『法華経』の「(じょう)不軽(ふぎょう)菩薩品(ぼさつぼん)」に出ている常不軽菩薩の寓話は、大乗仏教の人格尊厳論の実践として示唆ゆたかなものである、ちなみに、この菩薩は僧侶であれ、善人であれ悪人であれ、誰でも人を見れば合掌礼拝して「我れ汝等を(うやま)い敢えて軽んぜず。汝等(まさ)に菩薩道を行じ皆仏と()るべし」と讃嘆して変ることなかったというのである。

 

 

また釈迦の生国であり、かつて大乗仏教の栄えたネパールでは、日本の「今日は」にあたる日常の挨拶の言葉として「ナマスカル」という言葉を使うが、これは「私は、あなたの内に宿る神聖なものに合掌する」という意味だそうである。

 

 

 

まさにこのように、他者のうちに宿る仏性に対して合掌礼拝する精神とその発露、それが真の敬というものである。茶道の理念としての敬もそれにほかならないのである。その意味で、封建道徳の残滓どころか、民主主義社会の道徳の基本をなすものでなければならない。

 

 

 

 

 しかもこの敬は、広げれば生物・無生物をふくめて一切の物に対する徳でもあるのである。「山川草木悉皆(しっかい)成仏」という語で明らかなように、人間以外の一切の物も、人間における仏性と同じものすなわち法性(ほっしょう)を、それぞれに円満にそなえている、犬にも豚にも梅にも雑草にも、さらに水や石にも法性があるというのが大乗仏教の世界観である。

 

永平道元が谷川の水を汲んで手を洗い、余分をもったいないとして谷川にもどしたというが、また禅堂の食事では最後に、食器についたすべてをきれいに湯や茶で洗い、これを一滴余さず飲むことになっているが、これら物のいのち・法性を敬重する精神の発露にほかならない。

 

 

 

 

最近は「消費は美徳なり」などといわれ、「もったいない」という言葉が忘れかけられているが、このもったいないという心、これが物に対する敬というものである。もったいないという敬の精神から、「聖朝に棄物無し」というように、すべての道具や物のいのちを重んじ、その力を十分に発揮させ、それぞれの処を得せしめて、はじめて茶道の理念としての敬の真義に徹したというものである。そして、それがまたわび(・・)の心でもあるのである。

 

 

 

 

 なお最後に、「敬を半面にともなわない和は()れでこそあれ真の和ではない、また和と相即しない敬は窮屈な形式にとどまり真の敬ではない。和と敬とは表裏・主伴の関係で相即すべきものである。和即敬・敬即和でなけらば真の和・敬ではないということを、平等を差別との関係に例をとって説くつもりであったが、紙幅の都合上割愛して、次に「清とは何ぞや」の問題に進むことにしよう。

 

 

              清とは何ぞや 》につづく

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