◆ 和 敬 静 寂

 

 

 

 

 

 聖徳太子の『十七条憲法』の第一条に「和を以て貴しと為し、(さか)うこと無きを旨とせよ」とあることは周知のとおりで、たしかに和は人間の社会生活において最も重要な徳目である。しかし真の和とはどのようなことであり、どうしたら実現できるのであろうか。

 

 

 

 一般に和とは、なごやかで争いの波風をたてないこと、人びとが互いに自分の主張などを抑えて他と強調し、平穏を保つことと考えられている。このような消極的表面的な和でも、不和や反目ないし闘争にまさること万倍ではあるが、茶道の目標であり精神的基調としての和は、単にそれだけのものではない。もっと積極的でかつ内面的なものである。

 

 

 

真の和とは、人びとがそれぞれに独立独歩でその千差万別の個性を発揮しながら、しかもその個別差をこえた普遍的・根源的なもの、いわば万人共通の基盤に帰一して、相互に二にして二ならず、さればとて一の如くではあるが全く一ではない、という不二一如の関係になることである。主客・男女・老幼などの差別を少しもは(はつ)()することなく、しかも不即不離でいわゆる肝胆相照らす「一座を建立」することである。

 

 

 

ところが、人びとがそこに帰一することで和が成立するというその普遍的なもの・共通な基盤とは何であろうか。「肝胆相照らし合う」とは、どういうことであろうか。それについて豊かな示唆を与えるのは、茶の湯の重要な源流、ないし原型の一つであるところの禅院の茶礼である。

 

 

 

 

 

 禅院の茶礼は、今日では形がくずれてしまっているが、本来は達磨忌・開山忌などのかどある場合に、一山の住持・長老・来賓および相伴の僧らが粛然と列座し、同じ点心をたべ同じ茶を喫する厳粛な儀礼である。

 

 

 

その場合、達磨忌であれば達磨を、開山忌であれば開山の頂相(ちんぞう)をその会席の正面にかけ、その前に点心と茶とをまず供え、次いでそれをおろして点心を各自にくばり、同じ一碗の茶を上座から順次に飲みまわすのが原型であったと推定される。

 

それは結婚式の三三九度の盃事や神社の祭礼後の直会(なおらい)、さらにまたキリスト教の聖餐式や普通の宴席における盃の献酬などと同じように、「同じ物をたべ同じ物をむことによって、その人びとは一つになる」という原始的信仰に基づいた共同飲食の儀礼で、人びとの和合一体感を深めることを目的とする儀礼なのである。

 

 

 

しかも禅院の茶礼においては注目すべきことは、正面に達磨や開山の画像を掛けることである。それらを掛けるねらいの一つは、達磨や開山に対する報恩感謝の念を新たにすることにあるが、もう一つのねらいは列席の人びとに皆が帰一すべき共通の場、和合の成りたつ普遍的なものを示すことにあるのである。それは列座の人びとがみな等しく達磨の面目に立ちもどり、開山の(はら)をわが肚とせよ、と示しているのである。

 

そしてもし列座の人びとが、真に達磨の面目に帰一し、それぞれに開山の肚をわが肚とするならば、人びとは十人十色の個性の差をこえ、長幼・賢愚の別をそこなうことなく、そこにおのずから不二一如の世界、真の和の天地を建立しうるはずである。なぜなら達磨の面目・開山の肚こそは、万人に共通する普遍的な場であり、根源的な「一」だからである。

 

 

 

 

 

 仏教の教主釈迦は菩提樹下において開悟した時、思わず「一切衆生、みな如来の智慧徳相を具有す」と感嘆の声を放たれたというが、この一語、別言すれば「一切の衆生に悉く仏性有り」ということ、これこそが大乗仏教の根本原理である。そして禅の悟りとは、人々具足・箇々(えん)成底(じょうてい)のこの仏性を坐禅三昧の行によって把握することである。

 

 

 

ところでこの仏性なるものは、『般若心経』に「不生不滅・不()不浄・不増不減」とあるように、生滅・浄穢・大小などの一切の差別相対にあずからぬ普遍絶対なものである。また君子の仏性だから特に清浄で小人の仏性だから汚穢しているわけではなく、万人の仏性はみな等質であり、かつこの仏性は「仏にあって増さず凡夫にあって減ぜず」で、賢愚・美醜・貴賎・老幼に関係なく万人みな等量である。一味平等である。

 

 

 

そして達磨の面目・開山の肚というも、本体からみれば、この仏性と別物ではない。達磨の面目に帰一し、開山の肚をわが肚とするとは、人びとがこの一味平等・普遍絶対な仏性に立ちもどることである。

 

 

 

 あたかも理想的な禅院茶礼の場合のように、茶の場合においても、亭主も万人一味平等な仏性に帰一し、客もまた普遍絶対な仏性に帰するならば、亭主は亭主、客は客でありながら、しかも「両鏡相照して中に影像無し」という禅語のように、主客が二にして一、一にして二という不二一如の和合境がそこに、おのずから現成するであろう。『南方録』の「滅後ノ巻」にある「主客(じき)(しん)ノ交リ」とは、まさにこの謂いであり、茶道の理念としての和とは、実にこのような高い次元における和「大和(だいわ)」なのである。そして、こうした主客の不二一如の直心の交り、「大和」によって「露地ノ一境、浄土世界ヲ打開」いてこそ、真の茶道というものであろう。

 

 

 

 もし人びとが単なる趣味遊芸ないし芸術としての茶の湯以上に出て、茶道に体達し、ほんとうの和を実現したいと願うならば、茶の湯の稽古とともに実地に禅の修行にも精進し、自己に本来円満にそなわっている仏性を把得することに真剣な努力を払うことである。

 

 

 

 和についてはなお説くべきことも多いが、一応ここで打ちきって、次に敬についての考察に移ることにしよう。

 

《 敬についての考察 》につづく