鹿児島禅会・・・「禅とは?」

 

修行の実際的効果
 

禅の修行の実際的な効果を一口にわかり易くいうならば、それは、自分の心を自分で自由自在に使い得る事にあると言えましょう。 こう申すと、すこぶる簡単のように思われますが、実際は、これが一番むずかしいことです。

 

たとえば、何かやろうと決心したとします。 自分で自分の心を決したのですから、何事もそのとおりにやれそうなものですが、実際は、決してそんな容易なものではありません。また、こういうことはやめようと決心したのなら、これも、自分で自分の心に言い聞かせたのだから、すぐにでも止められそうなものですが、どうしてどうして、なかなか思うように止められるものではありません。

もし、自分の心が自分の思うように使いこなせるならば、「われ言うが如く行ない、行なうが如く言う」と顔を真直ぐに挙げて断言もできましょう、「己の欲せざるところ、他にほどこすなし」と誰にはばかることなく言い切れましょう。

そして、それが実行できたなら、それはもう聖人、仏陀の境涯であるとさえ言えます。
「嘘をついては いけない」、「ひとに迷惑をかけては いけない」は、人間形成の初一歩です。しかるに、これだけのことでも、家庭内の躾として社会人の教養として、身につけるのは、容易なことではありません。そこで、われわれは、まず自分の心を自由に使うということを修行の第一の目標としております

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

心とはいかなるものか
さて、自分の心を自由に使いこなそうとするならば、まず、心とはどんなものであるか見極めねばなりますまい。これは自明の理です。自分の心を把握もしないで、自分の心を自由に駆使しょうとするのは、ちょうど、馬なくして馬を自由に駆使しようとするのと同様で、これはもとよりできない相談です。

しかるに、世の中には、心を修めるとか、心を浄めるとか、心を磨くとか、心を安んずるとか言いながら、案外、この自明の理を忘れている者が多いのではないでしょうか。馬なくして、調御の術を説明するとか、馬の特性を研究するとかも、準備としては結構でしょうが、いささか本末顛倒の嫌いなきにしもあらずです。要は、まず馬を手に入れることでしょう。

心の修養を唱え、心の安心を説く前に、まず心をつかまえるのが先決問題ではないでしょうか。まして況や、心を自由に使うという段になれば、ぜひともその心をしっかり把握せねばなりますまい。

ところが、心とはいかなるものか、と尋ねてみると、自分の心でありながら、さてとなると、なかなか掴めないものです。「心とはいかなるものとひと問はば、墨絵にかきし松風の音」。有るといえば有るような、無いと言えば無いような。「移りゆく初めも果てもしら雲の、あやしきものは心なりけり」。


「之をとる時は存し、之をおく時は亡ず。出入時なし。これ心の謂(いい)いか」どうも心というものは厄介な代物です。
しかし、それは、心を相対的に把握しょうとするからの話で、やりようによっては、そんなに困難なことではありません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

心を把握するには
では、どうしたら心を把握することができましょうか。
禅ではそれを、悟りを開くとか、道眼(どうげん)を開くとか、見性(けんしょう)するとか申しております。その実際のやり方は、一応、実参(じっさん)実証(じっしょう)のところで触れたのですが、見性は、禅の修行の初めであり、かつ終りであるのですから、やや重複の嫌いもありますが、説明を加えさせていただきます。

それには、まず心と性(せい)の区別をハッキリさせておくことが大切です。普通、おおざっぱに心、心といっていますが、譬えてみれば、それは水の上に立った波のようなものです。 ですから、憎い可愛い惜しい欲しいと、働かせているいわゆる心を、水の上に立った波とするなら、波の基たる水に相当する心の基になるものがなくてはなりません。それを、仏教では性と名づけておるのです。

即ち性は基で、心は現象です。われわれはそれを、たんに性と呼ばずに、本心(ほんしん)本性(ほんしょう)という意味を含ませて心性(しんしょう)と呼んでいるのです。 ですから、見性とは心性を見るというわけです。ときには仏性(ぶっしょう)を見ると言い、又は法性(ほっしょう)を見るといってもよいでしょう。

さて、心を把握しょうとするならば、その基である性を把握するのが近道でもあり、確実ということがわかりましたが、実際にはどうすればよいか。 

千波万波、大浪小波を静めれば、水の本当の相がわかるように、喜怒哀楽愛悪欲というような差別の念慮を納めてしまえば、性を見ることができます。そのために静坐工夫をするのです。 つまり、これは思慮や分別や道理では決して解決できません。即ち智ではどうしょうもない問題で、これを工夫三昧になり慧によって解決するのです。

静坐し工夫(くふう)三昧(ざんまい)になり心の基たる心性を悟得するわけです。これが即ち、坐禅の修行によって転迷(てんめい)開悟(かいご)の実を挙げると言われているのです。
これが禅における人間形成の順序としての第1歩となります。


※実参実証=真正の師家に師事した本格の禅の修行のありかた
見性=本心本性を徹見すること。達磨大師の“直指人心 見性成仏”から出た言葉。
※心=現象  心の基=性 (心性 仏性 法性)

 

◇立田英山著『禅と人間形成』--禅の修行と如是法から転載

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