〇 人間禅の精神

耕雲庵英山老師
耕雲庵英山老師

※両忘禅協会が発展的解消を図り、昭和24年3月3日に新しく宗教法人人間禅として発足するに当り、第一世総裁 耕雲庵立田英山老師が人間禅の精神として述べられた「正しい新しい宗教としての在り方について、私の理想」を紹介します。

 

「正しい新しい宗教としての在り方について、私の理想」

 

  

正しいとか新しい宗教とは如何という問題をいう前に、現代においては無宗教をもって文化人の誇りででもあるが如く理解している者もあるから、私は、宗教は人間が人間である限り人間にとって、殊に考える文化人にとって必然的なものであるということを先ず挙げたい。

 

と、いうのは、人間は考える動物である。そして避けがたい死に対決し、自己の有限性と相対性を考えたとき、誰が不安なしでいられよう。

 

この不安をごまかすために、ある者は生きているうちだけの官能的享楽だけで満足であるといおうとする。しかしそれは一時的の逃避で、事々にぶつかってその不安は却ってかきたてられて真の満足を得られるものではない。

 

又或る者は、科学的真理の永遠性や芸術的美の悠久性に自己を関係せしめ、この不安から救われようとする。

 

しかし科学的真理の永遠性や芸術的美にはたしかに超時間的のものはあるが、科学的認識にしろ芸術的創作にしろ、いづれも認識するものとされるもの、創作するものとされるものとが、相対性の上にたったもので、その一点をとっただけでも、ついに絶対なものにはならない。

 

つまりは比較的に永遠性・悠久性があるというだけで「人生は短く芸術は長し」といって見たところで、比較的に長いという話だけのことである。

 

畢竟それらは我々が自己の有限性と相対性とを深く認識した場合、すでにそこで求めている無限性と絶対性への要求を最後的に満たしてくれるものではない。文化人として、それで真の満足を得たといい得るのであろうか。

 

われわれ人間は自らが有限であり相対的でありながら、しかも無限をもとめ絶対をあこがれずにはいられない存在で、そこに人間のもっとも人間らしい点があるものである。そして相対的で有限な自己と絶対的で無限なものとの間に正しい通路を打ちたて、自己を絶対のなかに位置づけるものが実に宗教である。

 

そして自己が絶対のなかに正しく位置づけられたのを発見した時、人々はそこにはじめて真の満足を得るのである。だから人間は宗教によってのみ真の満足を得るのである。だから人間は宗教によってのみ真の満足を得ることができるといえよう。

 

私は現代文化人こそ、深き反省のもとに宗教を理解し支持し信仰せられんことを希望する次第である。

 

けれども、そういわれたからとて、文化人として直ちに納得のいきかねるものがあるに違いない。それは曾って私が浄土真宗の説教をきいて低劣愚劣なものであると感じた体験者あるだけによく判る。

 

それは宗教の必要は認識しても、既成の宗教――それは正しいものであろうとも古臭く、新興宗教――それはいかに新しかろうとも正しくない。こんなことで宗教が文化人からそっぽを向かれる原因であろう。

 

そこで新しい宗教とは何か、これに対する希望をここで箇条書きに列記することにしよう。

 

1、 視野の世界性

  民族の守護的な排他性を打ち破って、国境や人種を超越したもので

  ある。

2、 原理の合理性

  奇跡を信じなければ入信できないようなヴェールを脱して、

  科学的な教義に立脚する。

3、組織の民主制

  宗教家が特権階級であるような封建的錯覚を打破して、

  万事合議制でゆく。

4、 行事の実際制

あくまで人間社会から遊離しないで、磐石の信念と燃える情熱をもって

躬行(きゅうこう)実践する。

 

   大体、私の宗教に対する希望の概要は以上の如きものである。

 

さて次に、そういう精神的基盤の上に創設された人間禅の『立教の主旨』について一言したい。

  

第一に、そもそも人間禅の精神とは如何なる精神であろうか?これが即ち立教の根本精神でなくてはならない。そこで先ず人間禅の特徴から話してゆきたいと思う。人間禅の特徴としては、次の3点をあげることができる。

  

1、人間味の豊かなこと

 

2、各自の個性を重んじること

 

3、神秘性を説かないこと

 

これは、今更改めて私がここに挙揚するのではなく、実は私の永年の信条である。そして、従来の禅の集まりにおいては、この3点に欠けるものがあることを常々遺憾に思っていた次第である。

 

今やこの弊を脱却して時代に適応した新しい宗教法人として発足したのが、吾が人間禅である以上、その立教の根本精神にこの3点が特徴づけられることは、自ら明白なことである。

 

即ち先ず吾が人間禅は、夫婦親子生活の情味を知らない世捨て人や、生産に預かる術も知らない有閑人の集まりではない。あくまで人間社会を基盤とした人間の集まりである。

 

哺乳類・霊長目・人類に属するホモサピエンスと称する動物の一種であると同時に、真善美聖を愛する心を持った人間である。従って無闇に五欲七情を汚れとして払い除けた神仙や、徒に肉食妻帯を毛嫌いする聖者を真似ようというのではない。

 

さればといって、人間を単なる動物、精巧なる機械と見て、単に動物的本能を享楽するのをもって人生とするが如き、皮相の見を抱くものではない。

 

あくまで正しく・楽しく・仲良く暮らすのが、本当の人間の在り方で、これを私は人間味と申すのである。吾が人間禅は、この人間味豊かな温かい家庭であることを、特徴の一つとしている。

 

次にお互いは、自己の個性を尊重すると同時に他の個性を尊重せねばならない。

 

禅の修行というものは決してどれもこれも同じ様な型の人間を作り上げることではない。

 

梅には梅の薫りがあり、桜には桜の色があり、柳には柳の姿がある。禅は梅らしい梅、桜らしい桜、柳らしい柳を尊ぶのであって、世界中の植物を桜一色にしてしまうという様な阿呆らしい不可能を望むのでは断じてない。

 

人には人夫々の持味があり、民族には民族各々の歴史がある。禅は本来のその特徴を充分に生かし、その自主性を完全に発揮するのを本領としていたのである。

 

禅ほど自由にしてかつ平等なものはないのである。

 

然るに布教と称して時の権威者を利用し、利用されている間に何時とはなしに形式に流れ、又伝統の名を借りて絶対性を説いている間に何時とはなしに、独善に堕してしまったのである。

 

この封建的な色彩はこの際潔く払拭して、禅本来の面目に立ち返らねばならない。即ち進歩的・自主的な個性を重んじた在り方が、我が人間禅の特徴の二つ目である。

 

最後に、三つ目に数えあげられるところのものは、神秘性を説かず、理外の理を語らぬことである。

 

これは夙に自然科学を研究してきた私として、年来の主張である。そして自力の修行を標榜するものとして、私は曾って一度も仏天の加護とか、神明の冥利とか口に出したことはない。

 

また仏罰とか神罰とかいう語を最もきらう。「大法に不可思議無し」これが古今に亘って一貫した真理である。

 

私は超人的な神仏や、実在を離れた幽冥界や、いわゆる肉体を離れた霊魂というようなものを断然否定する。

 

世には、宗教の世界という特別な世界があって、何か理外の理という様なヴェールに隠れた神秘性でも解かないと宗教ではない様に誤解している者がたくさんいる。そういう人が、私の説を聞いたなら定めし驚嘆もし、或いは迫害を加えてくるかも知れない。

 

然しやがてそれらの非科学的宗教は時勢の進運に従って置き去られ、今わが人間禅を誹謗する人々もよき理解のもとに吾々の仲間となって堅く握手する日の近きにあることを信じて疑わぬ者である。

 

以上人間禅の特徴として挙げたところの3点に更に在来の禅特有の根本精神、即ちそれは実参実証をもって転迷開悟の実を挙げることと、上求菩提下化衆生の願輪を廻らして伝法布教の実を挙げることの2点、これを加えて都合5点を、私は人間禅の精神と呼ぶのである。

 

然らばここに挙げた5点は、吾が人間禅の立教の根本精神であるということができる。故に私は次の5箇条を吾が人間禅の立教の主旨とした。

 

 

 

 

 

 

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