座禅の一歩  数息観

○「数息観」というのは、坐禅を組んで、静かに自分の息を数える修行の方法です。

 

 

 これは古来印度において昔から行われた精神修養の方法で、「安楽の法門なり」ともいわれています。それが仏教と共に中国に伝わり、さらに日本に伝わって来たもので、いわば三つの国を渡ってきた心身の修養鍛錬の方法であります。

 


例えば学生時代のことを思い起こせば、机の前に坐って本を開いてはいるものの本当の意味で勉強をしているのではない。遊び半分といっては語弊があるかも知れませんが、元々、三昧の力を養ってはいないので、雑念や妄想の合間々々にただ本に書いてある事柄を考えているようなものです。それでは能率のあがる訳がありません。

 


古来、聖人も【心ここにあらざれば見れども見えず、聞けども聞こえず】と言っています。ただ形だけ机に噛りついているというのでは本当に仕事をしたことにはなりませし、学業も身に付く訳がありません。

 

 

 

それが「三昧の力」というものを養っておくと、心を一つ所に安定し気持ちを散乱させないのですから、即ち「心ここに在る」わけですから本を読めば本当に読むことになり、何かを考えれば本当に考えることになります。こうなれば仕事ならば業績は上がるし、学業ならば成績も向上しない訳がありません。 

 

 

 

 

 

 

○数息観の仕方について

 

 

 

◆まず「前期」から説明しましょう。最初の入息をヒーと、そして最初の出息をそのまま受けてイーと数えます。つまり最初の一呼吸でヒーィーです。次の呼吸がフーゥーであり、その次がミーィーとなります。かくて11番目はジューと吸いイーチと吐き、20はニィーと吸いジューと吐き、21はニジューと吸いイーチと吐きます。100はヒヤァーと吸いクーと吐き、そのまま再びヒ一ィーと1にかえるのです。

これだけのことなら、数のかぞえられる者なら誰でもわけなくできる筈ですが、ここに二つの条件があります。この条件を無視したのでは、ただ息を数えるということだけであって、数息観になりません。ところが、この条件にかなうということは甚だむずかしいことで、大いに修練を要するのです。それだからこそ「前・中・後期」と分かれる所以なのであります。
さてその条件と申しますのは

a.勘定を問違えないこと
b.雑念を交えないこと
c.以上二条件に反したら1に戻すこと
の三つです。

 


これは何でもない条件のようですが、さていよいよ実施してみると、容易でないことにお気付きになるはずです。

 

〇「a」の「勘定を間違えない」とは、数を飛ばしたり後戻りをしたりしないということです。

 

〇「b」の「雑念を交えない」とは、数をかぞえること以外のことを考えないことです。

 

 

 

もちろん無感覚になっているのではないのですから、外界からの刺激を受けて、見えもし聞えもしましょう。いわゆる「見れども見えず聞けども聞えず」というのは、単に見えない聞こえない ということではなしに、見たら見たまま聞いたら聞いたままにして、自己の考えを乱されないことです。

三味の力を養うには、特に例の三条件を厳格に守ることにします。また時には100から逆に99・98と数えてみるのも一法です。こんなふうにして滞りなく数息観が実施できる自信がついたら、自分免許で中期に進むのもよいでしょう。

 

 

中期は1から10まで勘定して、再び1に反るやり方です

 

 この方が楽な ように考えられますが、実はそうではないのです。というのは、中期では例の三条件を絶対に守ることになっています。数を間達えることは殆どないでしょうが、「雑念の入ることを全く許さない」ということは、難中の難です。

 

 どのような微細な念慮でも、数息以外のことを思い浮かべた時は、容赦なく1に戻してしまいます。蚊が通り過ぎるのはおろか、例え雷が眼前に落ちたとしても、さらに二念を継がずとなると、これは1000人中に1人もないと申しても過言ではありますまい。

  

 

でもこれ位のことができなくては、数息三味の力を得たとは決して申せないのです。数息観も中期の練磨を長く続けていけば、ついにはこの三昧の力を養い得ることは請合いです。今やこの三昧の力を養い得たならば、どんな環境にも左右されるようなことはありません。

 

 

これは数息観を試みている時ばかりには限りません。その三昧の力が発揮されて、たとえば大変喧騒な場所で精密な仕事に従事している場合でも、周囲に関係なく仕事の中に没入することができます。また、いかなる逆境に立っても“また風流ですなァ”と平然として、日々是好日の日々をおくることができます。武道にしても芸道にても、この域まで達することができたなら、まず名人とか達人とか称することができましょう。

 

後期は数を数えない数息観です。

  

人間禅第一世総裁 耕雲庵英山老師 曰く 【後期ですが、これは数息観を20年やった30年続けたといっても、ただそれだけで誰でも達しうる境涯ではありません。つまり年数にはかかわらず、熱心の度に関係があるのです。前に細くとも長くということを申しましたがそれは前期・中期の話で後期ともなれば短くとも太くと言いたいところです。禅門でも 「勇猛の衆生の為には成仏一念にあり、懈怠の衆生の為には涅槃三祇に亘る」 と申しております。

 

ぶらぶらとやっていたのでは、幾十年坐っても駄目ですが、勇猛心を奮い起こして坐れば、そんなに長年月を要するわけでもありません。この後期の域に達してこそ、よくぞ人間に生まれたものである」 と、人生の本当の意義を味わいうるのですから、せっかく御縁のあった皆様にも、数息観をおやりになるなら、是非ここまで練達して戴きたいと、切に願う次第であります。

 

この域に達すれば、もう呼吸などは意識せず、従って息を数えるのでもなく、そういうことは一切忘れはててしまうのです。忘れるといっても、数息観はしているのですから、ただ放心状態になっているのではありません。一休和尚のお歌に 「忘れじと思いしほどは忘れけり、忘れて後は忘れざりけり」 というのがありますが、その意味での忘れはてるのです。

 

むずかしいことを言えば、ただ念々において正念に住し、歩々において如是であるということです。こうなると全く禅者の境涯です。禅者の境涯と申しても、ただ室内を一通り畢ったの、公案学を卒業したのという程度では、なかなかどうして夢にだにも窺い知ることのできない境涯で、よほど聖胎長養に骨折らないと達せられる域ではありません。

  

禅の話がでましたから、この際一言触れさせていただきたいと思いますが、私が常々修行者に対して、日々少なくとも一香を坐れと口ぐせのように申しておりますのは、何も毎日公案の工夫をせよと申しているのではありません。参禅弁道だけでは、道眼は磨かれても道力が養われません。つまり禅者たるの境涯が円熟しません。禅の修行の目的は、実に念々正念歩々如是の工夫によって、「われ今ここに如是」の境涯に至りうるにあります。

 

とかく修行者に対して公案の透過ばかりを目標にして、平常数息観に骨折って定力を養うことを怠っている者があるから、とくに申すのであります。

 

元円覚寺派管長の釈宗演老師が 数息観は坐禅の最も初歩であるが、又最も終極である」  というておられるのを、よく憶念すべきであります。それならば禅の修行などしなくても、数息観ばかりしておればよいではないか、とお考えになる方があったとしたら、それは全く別問題であります。

 

さっき、公案学では道眼は開くかも知れないが、道力がともなわないということを申しました。数息観では定力は養えるでしょうが、真理眼は開けません。それでは心の支柱がありません。やはり、宇宙の生命・万物の真相・大道の根幹という問題になれば、脚実地に禅の修行をして転迷開悟の実を挙げねばなりません。 

 

大分、話が脇道にそれましたが、再び申します。禅者は一生涯数息観を廃すべきではありません。そして数息観ばかりでは、真の人生の意義はわかりません。

どうか禅の修行をなさる人もなさらぬ人も、これだけは意にお留めおき下さい

 

 

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1.数息観の効果について

 

2・座禅の仕方

 

3.数息観の仕方

 

     

 

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