『夢十夜』夏目漱石

夏目漱石は、ある時期鎌倉円覚寺の釈宗圓禅師に参禅をしました。長らく参禅したが、彼は初関を透過することはできませんでした。彼の『門」という小説にも述べられていますが、『夢十夜』の中にも参禅に取り組む様子を書き込んでいます。悟れない悔しさ、参禅の厳しさを夢物語として書いています。その小説の第二話をコピーで紹介します。

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第二夜

『こんな夢を見た。和尚の室を退がって、廊下伝いに自分の部屋へ帰ると…』
「侍なのに無を悟れていない」と和尚に馬鹿にされた自分は、悟りを開いて和尚を斬るか、悟りを開けず切腹するかの二択を自らに課し、悟りを開くため無についてひたすら考える。

     第二夜


 こんな夢を見た。
 和尚の室を退がって、廊下伝いに自分の部屋へ帰ると行灯がぼんやり点っている。片膝を座蒲団の上に突いて、灯心を()き立てたとき、花のよう丁子(ちょうじ)がぱたりと朱塗の台に落ちた。同時に部屋がぱっと明かるくなった。


 襖の画は蕪村の筆である。黒い柳を濃く薄く、遠近(おちこち)とかいて、寒むそうな漁夫が笠を(かたぶ)けて土手の上を通る。床には海中文殊の軸が懸っている。焚き残した線香が暗い方でいまだに臭っている。広い寺だから森閑として、人気がない。黒い天井に差す丸行灯の丸い影が、仰向(あおむ)途端(とたん)に生きてるように見えた。


 立膝をしたまま、左の手で座蒲団を(めく)って、右を差し込んで見ると、思った所に、ちゃんとあった。あれば安心だから、蒲団をもとのごとく直して、その上にどっかり坐った。


 お前は侍である。侍なら悟れぬはずはなかろうと和尚が云った。そういつまでも悟れぬところをもって見ると、御前は侍ではあるまいと言った。人間の屑じゃと言った。ははあ怒ったなと云って笑った。口惜しければ悟った証拠を持って来いと云ってぷいと向をむいた。()しからん。


 隣の広間の床に()えてある置時計が次の(とき)を打つまでには、きっと悟って見せる。悟った上で、今夜また入室(にゅうしつ)する。そうして和尚の首と悟りと引替にしてやる。悟らなければ、和尚の命が取れない。どうしても悟らなければならない。自分は侍である。 もし悟れなければ自刃する。侍が辱しめられて、生きている訳には行かない。綺麗に死んでしまう。


 こう考えた時、自分の手はまた思わず布団の下へ這入った。そうして朱鞘の短刀を引き摺り出した。ぐっと(つか)を握って、赤い鞘を向へ払ったら、冷たい刃が一度に暗い部屋で光った。(すご)いものが手元から、すうすうと逃げて行くように思われる。そうして、ことごとく切先へ集まって、殺気を一点に籠めている。自分はこの鋭い刃が、無念にも針の頭のように縮められて、九寸五分の先へ来てやむをえず(とが)ってるのを見て、たちまちぐさりとやりたくなった。身体の血が右の手首の方へ流れて来て、握っている束がにちゃにちゃする。(くちびる)(ふる)えた。


 短刀を鞘へ収めて右脇へ引きつけておいて、それから全伽(ぜんが)を組んだ。――趙州(じょうしゅう)曰く無と。無とは何だ。糞坊主めとはがみをした。
 奥歯を強く咬み締めたので、鼻から熱い息が荒く出る。こめかみが釣って痛い。眼は普通の倍も大きく開けてやった。


 懸物(かけもの)が見える。行灯が見える。畳が見える。和尚の薬缶頭(やかんあたま)がありありと見える。鰐口(わにぐち)を開いて嘲笑(あざわら)った声まで聞える。()しからん坊主だ。どうしてもあの薬缶(やかん)(くび)にしなくてはならん。悟ってやる。無だ、無だと舌の根で念じた。無だと云うのにやっぱり線香の(におい)がした。何だ線香のくせに。


 自分はいきなり拳骨(げんこつ)を固めて自分の頭をいやと云うほど(なぐ)った。そうして奥歯をぎりぎりと()んだ。両腋(りょうわき)から汗が出る。背中が棒のようになった。(ひざ)接目(つぎめ)が急に痛くなった。膝が折れたってどうあるものかと思った。けれども痛い。苦しい。無はなかなか出て来ない。出て来ると思うとすぐ痛くなる。腹が立つ。無念になる。非常に口惜(くや)しくなる。涙がほろほろ出る。ひと思に身を巨巌の上にぶつけて、骨も肉もめちゃめちゃに砕いてしまいたくなる。


 それでも我慢してじっと坐っていた。()えがたいほど切ないものを胸に()れて忍んでいた。その切ないものが身体中の筋肉を下から持上げて、毛穴から外へ吹き出よう吹き出ようと(あせ)るけれども、どこも一面に(ふさ)がって、まるで出口がないような残刻極まる状態であった。


 そのうちに頭が変になった。行灯も蕪村の画も、畳も、違棚も有って無いような、無くって有るように見えた。と云って無はちっとも現前しない。ただ好加減に坐っていたようである。ところへ忽然(こつぜん)隣座敷の時計がチーンと鳴り始めた。
 はっと思った。右の手をすぐ短刀にかけた。時計が二つ目をチーンと打った。