★★★ 剣 禅 一 味 ★★★

小川 忠太郎師範
小川 忠太郎師範

         剣 と 禅              小川 忠太郎 

 

 昭和7年の暮、谷中両忘会摂心会の帰り路に伊藤単道居士が「刀耕さん、わしは禅をやって始めて今日の剣道のやり方では名人が出来ないという事が分った。然しわしはもう年を取ってしまったからだめである。あなたはまだ若いからしっかりやって貰いたい」といわれた。

 

単道居士のいわゆる今日の剣道のやり方とはどんなものか?それは防具を着けて竹刀を持ち、打った打たれた、弱い強い、勝った負けたという勝負を争う相対的剣道の事である。かかる剣道は何時の時代にも最も多数を占めている世間並みの剣道である。

 

かかる修行は一旦血気盛んなる時は少しく力を得たように思うも、中年過ぎ或いは病になった時は、身体自由にならず、力衰え技鈍って剣を学ばざる者にも及ばず、無益の力を尽くしたものとなるのである。

 

 然らばほんとうの剣道とはどんなものを言うのか? 幕末の人傑勝海舟云く 【ほんとうに修行したのは剣術ばかりだ。自分は島田虎之助という名人に就いた。この人は世間並みの撃剣家とは違うところがあって終始「今時皆がやっている剣術はかたちばかりだ。折角の事に足下は真正の剣術をやりなさい」と言い、その法を授けてくれた。

 

それから島田先生は剣術の奥義を極めるのには禅を始めよと勧めた。19か20歳の時であった、牛島の広徳寺という寺に行って禅を始めた。

 

こうして4年間真面目に修行した。それが後年大層ためになり、小にしては刺客乱暴人の厄をのがれ、大にしては徳川瓦解前後の難局に処して綽々として余裕が有った。是れ畢竟剣と禅の二道より得来った賜である】と述懐している。

 

また、200年来の名人として推称される剣客に寺田五郎右衛門と白井亨の二人がある。

 

一日勝海舟が白井に剣道の稽古を願い、立ち上がりに竹刀を合するや、白井の神気に圧せられ、身体萎縮して如何ともするなし。

 

刀を捨てその由を問う。白井 云く、「あなたは少しばかり剣術をやっているからそう感ずるのである。初心の者なら、わしの前に立っても何ともないのである」と、この言を聞いた海舟はさらに驚いたと言っている。

 

 

 この白井は28歳までは世間並みの剣道の修行に苦心し、300有余の門人を持っていたが、反省してみると不安である。

 

その故は苦行の結果、人から膽勇剛健、衆に優る技があると聞こえた人でも、40歳、50歳の老境に近づけば、以前の活機は衰えて神出鬼没の術は行えなくなるもの、天下の剣客は挙げて皆然りといってよい位である。

 

これでは修羅道である。老いても萎縮せず従容として敵を制せなければ剣道は役に立たない。

 

我生涯を過てり、と自信を欠いたのが28歳の暮である。翌年江戸に行き、一刀流組太刀名人寺田五郎右衛門を訪い、木刀を執って一試合してみた。

 

この時、寺田は63歳、寺田は従容迫らず、徐かに木刀をかざして構えると、白井は通身汗に浸って、木刀を投げ捨て、叩頭してその術の精妙を得た所以を訊いた。寺田は莞爾として是は見性悟道の修行以外にはないのだと説破した。

 

ここにおいて始めて寺田の門に入り、死を誓って常人の及ばざる修行をする事六星霜、一日、機に触れて釈然として会得が出来、試みに木刀を手にして其意に従えば至妙の機を自得したのである。

 

 白井 云く、「己の木剣から輪が出るぞ」と。白井の剣理は真赫空機に尽きる。云く「一刀の鋒先不生不滅の大赫機無きは阿字の一刀に非ず。

 

かかる大道なれば後世の剣客等の如き夢にだも知らぬは尚お理なり」又云く「懐州牛喫禾益州馬腹張、欲知端的向北斗南看、青山白波起井底紅塵颺、南山雲起北山下雨などの言句掌上を見るが如くなるのみに非ずして、この意を以て敵を制する能はずんば、言うこと勿れ兵法を得たり」と。

 

又云く「嗚呼鵠林先師無くんば、此法何ぞ存せん。先師寺田無くんば、何ぞ此法を兵法に加うることを得んや」と。寺田・白井は東嶺の鉗鎚によってほんとうの剣道に入る事ができたのである。

 

 剣道は、見性悟道を根底として、始めてほんとうの剣道となるのである。

 

未熟極まる私の剣と禅の体験を書くと13歳の時より53歳の今日まで、40年間剣道の修行に心血を注ぎ、30歳の時、両忘協会に縁あって入門、今日まで細々ながらも修行を続けている。

 

終戦後8年間は剣道中止のため殆ど剣は手にする機会はなく、教員と百姓で貧乏のどん底生活を続けてきた。貧乏も到着点は餓死で終わりと決めていると、傍で見るほど苦しくない。

 

7人家族で、働くものは自分1人、15歳が上で子供5人である。8年間の貧乏生活で、自分の心もよく見え、人の心もよく見えるようになってきた。自主的貧乏には味がある。

 

話は飛んでしまったが、本年3月、親友の勧めにより警視庁へ剣道で奉職し、6月に師範を任命された。

 

 警視庁剣道は、日本剣道の大本山と言っても過言ではないのである。師範11名、教師10名の大世帯である。

 

師範は助教を相手として稽古するのである。10年20年以上修行し、技に於いては極点に迄達している者もある。こういう一角の先生たちと稽古するのであるから、技においては互角、否、助教の方が若いだけに勝味があり、体力に於いては更に勝味がある。

 

 然らば、どこで差がつくか?結局は、心の扱い方の問題となって来る。

 

私は8年間殆ど稽古せず、尚奉職時は農業で過労に陥り、栄養失調となり、暇さえあれば寝ていなければ、体力が続かない状態にある。この弱りきった体で、毎日猛練習をしている警視庁の猛者の中に飛び込んで、元太刀が出来るかどうかと考えてみた。

 

直ぐ結論が出た。『出来る。剣道は歩けるうちは出来る。何となれば、正しい剣道には些かの無理がないのである。病気や老年で稽古のだめになる人は無理があるからだ』と。

 

それで、第1日の稽古に出た。珍しいから、多くの助教さんたちが入れ替わり立ち代り懸かってくる。1時間の稽古を初めも終わりも同じ拍子で使い切った。

 

 それから今日に到るまで3ヶ月間、体の拍子がよくも悪くも、一日も休まずに遣り通してきた。

 

 

剣道の要諦は、三昧に入っていればよいのである。剣道では之を真剣と言う。自分が真剣になると相手も真剣になる。互いに真剣になっては、どちらも動きがつかなくなってしまう。

 

そこで自分は、もう一つ上の真剣になる。そこに臨機応変の技が生まれてくるのである。

 

この真剣という言葉を、別の言葉で言えば、初めの真剣は至大至剛であり、次の真剣は柔軟心である。

 

助教さんたちは技や気合や間合いだけで、なんとして打とうと思ってくる。自分は、居ながら居ないのであるから、つかまえどころがない。けだし未熟な人間同士の事であるから、対立となり、もつれることもある。そういう時は晩秋の夕暮れの静寂な境界に入りこめば苦もなくもつれは解ける。こんな拍子で稽古をしているのであるから至極一日が面白い。

 

 8年前よりは上達しており、しかも毎日少しずつでも稽古に心境があるのは、一に禅の修行の賜と思い感謝している。

 

けだし、道は分限、宮本武蔵は「五十にして尋ね入るべき道無くして光陰を送る」と言っているが、自分は剣に於いてさえ、人を指導するという面に至っては幼稚園である。況や日常生活に至っては、反省し、只恥ずるのみである。

 

 

 

この文章は、昭和28年 小川忠太郎師範が53歳のとき、その年の9月に発行されました人間禅機関紙『人間禅』創刊号に寄稿されたものです。

 

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